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月寒あんぱんのひとがついた甘い嘘






「俺、これ...ダメなんよねぇ」 Kindleで漫画を読んでいた大道が溜め息を吐きながら、携帯電話をそのまま机の上に置いた。何事かと思って、その携帯を手に取り、ページを見る。

ゴールデンカムイの終盤、鶴見中尉と鯉登少尉の決別が決定的なものになるシーンである。


「私のちからになって助けてくれ」と

まっすぐにアタイを見て

そげん言ってくいやっちょったら そいでもついて行ったとに


「...この台詞のことですか?」


私が呟くと、彼は頭を振って 「これさぁ...〇〇と言ってくれたら結果は違っていたと言われても、知らんがなでしょ。恋愛ドラマとかでもよくあるじゃん。嘘を突き通してくれれば別れなかったのに!みたいなやつ。期待することと違う回答をしたら、それによって行動を変えるのはそうだろうね。けど、わざわざ捨て台詞にする必要あるんかなといつも思ってしまう。結局、そう言うとこだぞとしか思わなくなっちゃう」 と返してきた。


それは「捨て台詞が嫌い」と言うことなのではと思いつつも、考えてみればなるほど、私にも思い当たる節はある。 どうにもならない事に対して、自身の心情や境遇を吐露する事によって良心に訴えかけると言う行動は日常生活でもありがちなことだ。


親族や会社など近しい人に対しても、目的とは関連しない事柄を知っているが故に自身にとっての最善手を選択が出来ないことなど往々にしてある。他人であっても、夜の新宿や渋谷あたりに行けば、良心どころか慢心や自己肯定感に漬け込もうと虎視眈々としている人に改札通過0分で遭遇出来る。


けれど、そのそれぞれにドラマがあって、そう言う「罪ではなけれど、少しだけ常軌を逸した何か」 が私は好きだ。冷めた目で見ながらも欲深さであったり業であったり、さまざまな物が見えて、 私は心の中でその人をいつもちょっとだけカッコよくしてしまう。どんなに迷惑な人であっても、何となく嫌いになれない。


現代では忌み嫌われている日本近代の価値観に生きていた人にとって「それでも吐露する何か」と言うのはどういう意味を持つのだろうか。忸怩たる思い、では割り切れないものを含んでいるに違いなのだ。

私は貪欲だから、そこに思いをどうしても馳せてしまう。

大道は人の裏を絶対に読まない。

私は彼を本当の意味で優しい人間だと思う。


良心に訴えかけるという事はあくまで最終手段だ。

それを最も効果的に行うために捨て台詞にするのは間違ってないのかもしれない。けれど、良心に訴えかける事で甘い蜜を吸っている人はそれが癖になっていて、サイコパスになりかけている人も多いので、安易に近づいてはいけない。 (LGBTsの世界では特にね)

大道は今日も「俺は営業頑張ったよね?意地悪も言われたし!団子食べてもいいかな?栗羊羹 いいかな?」と私にはない良心を求めて彷徨っている。

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